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第86回あしなが学生募金 東京・有楽町でスタート

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 第86回あしなが学生募金のオープニングセレモニーが4月19日、東京のJR有楽町駅前で行われました。
セレモニーにはあしなが運動の提唱者である、あしなが育英会名誉顧問の岡嶋信治さん、震災遺児の父親、遺児大学生ら約20人が参加し、通行人に募金へのご協力を呼びかけました。

 冒頭、震災後から東北事務所に赴任した富樫康生職員から震災遺児たちの現状について報告があり、「震災から2年が経ち、いろいろな変化が生まれている。落ち込んだり、ふさぎ込んだり、気になる子どもが増えてきたと聞いている。子どもたちが自由に安心して自分の感情を表現できる場が必要だと強く感じている」と東北レインボーハウスの必要性を訴えました。
 続いて、震災遺児の父親である菊地司(きくち・つかさ)さんが、震災当時の状況とその後の心境などをときに言葉を詰まらせながら、静かに語りました。菊地さんが千葉県で単身赴任中に東日本大震災が起きました。福島県相馬市の自宅は津波で流され、学校にいた3人の子どもたちは無事だったものの、自分の妻と母親、祖父母の4人の行方がわからず、避難所や病院を必死で探し回った末に4人とも遺体で見つかりました。心身ともにボロボロになりながら気力だけで前進していたとき、あしなが育英会と出会いました。避難先の東京でレインボーハウスに通うようになり、同じように家族を失った方々との交流を深め、とげとげしい感情が穏やかになり、自分も誰かの役に立ちたいと思えるようになったそうです。「一日も早く被災地にレインボーハウスが設立され、家族を失った方々が交流を深めてほしい、絶対に一人で悩まないでください」と語りました。※下記に全文を掲載
 その後、昨年末に発行された、東日本大震災遺児作文集「3月10日まではいい日だったね」の朗読、岡嶋信治さんの呼びかけが行われ、最後に第86回あしなが学生募金事務局長の緑川冬樹さん(神田外語大4年)が、「建設費用は、建築資材、人件費の高騰によって現在約4億5千万円が不足しています。このままではいつまでたってもレインボーハウスを完成させることができず、多くの子どもたちが心のケアを受けられず、震災による心の傷を癒すことができません」とレインボーハウス建設費への支援を訴えました。

震災遺児の父親・菊地司さんの呼びかけ(全文)

 「私は東日本大震災の影響を受け、福島県相馬市から東京都に避難し、今も避難生活を続けています。今から約2年前になりますが、平成23年3月11日金曜日午後2時46分に東日本大震災が発生し、その1時間後の3時46分、私の地元であります、相馬市を10メートルを超える大津波に襲われ、自宅は全壊、お墓も流され、私の家族でもありました祖母、父、母、妻の4名の尊い命が奪われてしまいました。でもその時間にはうちの子どもたち、息子3人いますが、学校にいた時間でしたので、子どもたち3人は助かりました。
 そのとき私は単身赴任で、千葉県で仕事をしていました。子どもたちと連絡がとれたのは震災から3日がたった3月14日の日でした。学校の校長先生から電話が入り、息子たち3人は無事ですと。だから迎えにきてほしいといわれたのですが、私は千葉県から福島まで簡単には迎えにいけないと思っていたのですが、会社の社長が毎日乗っている車を貸していただき、千葉県から福島県に16時間かかりましたけども無事到着することができました。
 子どもたちの顔を見たときにはすごくほっとしました。そのときには祖母、父、母、妻、まさか亡くなっているとは思わなくて、必死に探し回りました。どこの避難所に避難しているんだろう。病院にいたら、入院しているんじゃないか。入院できる病院を探し回ったりしましたが、なかなか家族が見つからず、自宅に行こうとしても、自宅から1キロメートル手前まではもう水浸しの状態で、自宅に近づくことすらできませんでした。
 震災から1週間後に水が引き、自宅に入れるようになりました。捜索隊の方々もたくさん来てくれて、私の家から遺体が2体見つかりました、と報告があり、確認してくれと言われました。そのときはまだ家族が亡くなっているとは思わなかったので、流されてきた人が偶然うちにはいってしまったのではないかと思っていました。遺体を確認すると、そこには祖母と私の妻が横たわっていました。
 私は震災から1週間、必死に家族を探し回ったので、そのとき、家族の遺体を見たときは、逆にほっとしてしまいました。何だ、こんなとこにいたのか、という感覚でした。そして震災から2週間が過ぎ、父の遺体が遺体安置所で確認されました。震災から1ヵ月後に安置所で母の遺体が見つかりました。捜索にあたってくれた方々に対し、本当に感謝の気持ちでいっぱいでした。震災から1ヵ月たちましたが、家族全員そろうことができ本当によかったと思っています。でも私にはそれが始まりでした。
 それからというもの、私はずっと単身赴任で家を離れていたので、家の生活ということは全然わからないままでした。それを一から探していくという、手続き関係は本当にわからなくて、大変でしたが今は自分でなんとでもできるようにすごく変わりました。

 私はあしなが育英会さんと知り合ったのは、震災から7ヵ月がすぎた10月のことでした。そのときは、私は体もボロボロで、心もボロボロで、本当に気力だけで一歩一歩、前へ進んでいる状態でした。それで初めて(日野市の)レインボーハウスにいって、片親を亡くされた方々と知り合い、いろんな話ができて、自分の気持ちも少しずつゆとりが持てるようになってきました。そして2回、3回とレインボーハウスに通うようになり、私の実体験を聞き入れてくれた、レインボーハウスに集まったくれた方々がすごく応援してくださった。

 そういったこともあり、私はすごく気力だけで前へ進んで、本当に表情から心からとげとげしい感情で溢れかえっていましたが、それも穏やかになり、私も人のために何かできるんじゃないかと、またちがった公共性が見出すことができるようになりました。なので、福島県、宮城県、岩手県にレインボーハウスを設立することが決まりまして、すごくありがたいと思いました。私だけではなく、片親を亡くされた方々は毎日必死に生活を送っています。震災前とは比べものにならないほど生活環境が変わり、それでも一歩一歩前に進んでいかなければならない。本当に心も体もむしばまれているような感じで生活している人がたくさんいます。

 一日も早くレインボーハウスを設立し、片親を亡くした方々がいつでも出向いて、片親を亡くされた方々の交流を深めてもらい、自分一人で悩むんではなく、応援してくださる方々、あしなが育英会さんの職員の人たち、本当に丁寧に丁寧に相談に乗ってくれます。なので、ぜったい一人で悩んだりしないでください。やはり人間、私たちにとって、心のゆとりがなくなってしまうと、すごく追い詰められてしまいます。なので気持ちにゆとりを持つということはすごく大切なことだと、私もすごく感じさせられました。私もこれから一歩一歩前へ前へ進んでいきたいと思っています。

 私には3人の息子がいます。長男は今年で二十歳になります。次男三男は双子で中学3年生です。長男はもう就職して働いています。次男三男は中学3年生です。でも震災に遭い、地元を離れ、慣れない都会での生活を送ってきましたが、でも前向きに過ごしています。
 私の双子の中学3年生の兄弟は目標を持っています。次男は建築士になり、放射能から身を守れるような家を建てたい、そういった目標を掲げました。三男は小学校のころからサッカーをしています。目標はサッカー選手になることです。でもサッカー選手というのはとても短命の仕事です。いいところ三十代で引退を迎えてしまうそういった短命の仕事です。でも引退してからもサッカー関連の仕事を続けていきたい、そういった目標を持ち、大学へ入ってスポーツ学を学び、サッカー関連審判、トレーナー、コーチ、監督などの資格を大学卒業までに一つはとりたい、と目標を持ちました。
 子どもたちは震災に遭って、家族も亡くし、家も流されてしまいましたが、子どもたちは子どもたちなりに、一歩一歩目標に向かってがんばっています。これからも私たちは生きる限り、これからも一歩一歩前へ進んでいきます。みなさんのあたたかなご協力をよろしくお願いします。ありがとうございました。」



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