~あしながアフリカ100年構想実現に向け新たな協力を確認~
2012年2月21日(木)【東京】
日仏パートナーシップ仏外務大臣特別代表ルイ・シュバイツァー氏があしなが育英会の東京本部を表敬訪問しました。
シュバイツァー氏はアフリカのガボンで生涯を医療活動に捧げ、密林の聖者と呼ばれたノーベル平和賞受賞者アルベルト・シュバイツァー博士を大叔父に持ち、フランスの有名な哲学者サルトルとも血縁関係にあります。仏エリート養成校である国立行政学院(ENA)を卒業後、財務検査官を経て、1981年から当時のファビウス蔵相(現外相)の官房長に就任。次いでファビウス氏が産業研究大臣、さらに84年に首相に就任した際にも官房長を務めました。その後86年に国営ルノー公団に社長として入社、92年に49歳の若さで会長に就任してから、2005年に予定党通りカルロス・ゴーンに社長に社長の座を引き継ぎ引退するまでルノーの民営化を実現、世界戦略のパートナーとして日産とのアライアンスを成功させ、ルノーをヨーロッパ最大の自動車メーカーとしてよみがえらせました。
シュバイツァー氏はあしなが育英会が現在最も力を入れている、”あしながアフリカ100年教育構想“の最も良き理解者の一人です。発案者でもある当会の玉井義臣会長が、アフリカのサブサハラ以南49カ国から、毎年1人ずつ優秀な遺児を選抜して世界のトップクラスの大学に進学させ、将来のリーダーに育てようというこの構想への協力を要請するために、これまでに氏とフランスで2回会談を行なっています。その結果2月6日の第2回会談で、本会が構想実現ために組織しようとしている賢人会議(有識者会議)の代表を務めることを快諾していただきました。今回の来日の目的は、フランスのファビウス外相の命を受け、今年前半に予定されているオランド仏大統領の訪日の事前調整を日本政府と行うことにありますが、氏が多忙なスケジュールの合間を縫って、この機会に玉井会長と東京で再会することを望んだことから、表敬訪問が実現しました。
午後3時、クリスチャン・マセ駐日フランス大使と共に平河町にある本会本部に到着したシュバイツァー氏は、直ちに玉井会長、岡嶋信治名誉顧問、天野聡美副会長、岡崎祐吉理事他、100年構想に携わる職員らと共に3回目の会談を行いました。会談の冒頭玉井会長が、約2週間前にフランスで2回目の会談を行なった際にシュバイツァー夫妻が自分のために開いてくれたバースデーパーティーへの感謝の意を述べました。氏もとても楽しい時間でしたと応じると、早速本題に入りました。玉井会長がまず、昨年6月の第1回会議でシュバイツアー氏が「たった今、ファビウス外相に会い、すでにメールでブリーフィングを受けていたあしなが育英会のアフリカ100年構想のことを話してきた。私はこれを第3国(アフリカ)における日仏協力の分野に入るかもしれない案件と考えている。あしなが育英会がアフリカの子供たちを教育できるように、アフリカにあるフランス系の小、中、高校を探す手助けができれば幸いだ」と話してくれたことを話題にすると、氏は「よく覚えている」と答え、さらに、これから世界五大陸に設置する予定の賢人会議の代表になってくれる意思にも変わりがないことを確認しました。それを踏まえ、あしなが育英会が現在アフリカでエイズ遺児支援活動のために拠点を置いている英語圏のウガンダの他に、今後フランス語圏のセネガルにも新しいオフィスを開設したいという案を伝えると、氏とマセ大使は、セネガルを2番目の拠点として選択することに賛同し、今後の進展に関心を示しました。約40分の短い会談でしたが、過去2回の会談と同様に終始和やかな雰囲気で、非常に建設的な話し合いが行われ、今後も”あしながアフリカ100年構想“を実現させるために、お互いに協力していくことを再確認し会談を終了しました。
会議室から出ると、オフィススペースで待機していた職員たちから歓迎を受けたシュバイツアー氏は、「みなさん、進まなければ後退します。玉井会長が世界に放つ素晴らしい構想を実現させるために、会長と共に進んでください。」と挨拶しました。フランス語で”あしなが育英会へようこそ“と書かれた横断幕を前に記念撮影を行なったあと、玉井会長ほか大勢の職員に見送られながらあしなが育英会本部を後にしました。
シュバイツアー氏は今年3月、ナポレオンによって制定され、現在もフランスの最高勲章として存在するレジオンドヌール勲章グランド・オフィシエを受けることが決まっています。レジオンドヌールには等級があります。今回氏が受けるグランド・オフィシエより上に位置する勲章は大統領らに与えられるグラン・クロワだけです。シュバイツアー氏の希望により、ファビウス外務大臣が勲章授与式でプレゼンター(贈呈者)を努めます。
あしなが育英会副会長
筑波大学名誉教授
副田義也
あしなが育英会玉井義臣会長から、「アフリカ遺児教育支援百年構想」にかんする有識者会議をひらくにあたって、十月にルノー名誉会長ルイ・シュヴァイツアーさんとお話すると聞いた。
ルイ・シュヴァイツアーさんは、「密林の聖者」で知られるアルベルト・シュヴァイツアー博士の縁戚である。聞くところによると、博士は父方の大叔父にあたるという。ふしぎな縁をかんじる。
縁といっても、私とシュヴァイツアー博士とは直接の関係はない。関係があるのは、父の副田正義である。
父は、1924年にクリスチャンとなり、青山学院大学神学部を経て牧師となった。青山学院時代、内村鑑三に私淑して内村が刊行した「聖書之研究」を愛読し、毎夏ひらかれていた夏季講読会にも参加する。その夏季講読会席上、内村をはじめ、矢内原忠雄、塚本虎二たちと面識を得る。
同じころ、内村はシュヴァイツアー博士がランバレネでアフリカ原住民のために無償で医療活動をしていることに協力しようと義捐金をおくり、日本での後援会も設立する。父もその一員として熱心に活動した。
だれの紹介かはわからぬが、父はシュヴァイツアー博士と文通するようになった。父にとって博士は尊敬する人物であり、かつあこがれの存在でもあったのだろう。博士直筆のサイン入り写真をたいせつにかざっていたことを思いだす。
私の母が、九十九歳のときに刊行した自叙伝「神、備え給う」でも、シュヴァイツアー博士と父のことを、こう書いている。
「副田は神学生時代からシュヴァイツアー博士と文通しており、博士撮影のランバレーネの病院写真もたくさんおくっていただき、たいせつに持っていた。お腹が異様に膨らんだ幼児、洗濯をしている母親などの写真は今も目に浮かぶ」
博士からのこれらの写真や手紙は、いまはない。もちろん、紛失したわけでもなければ、だれかにゆずったわけでもない。
もう一度、母の自叙伝からなくなったいきさつを引こう。
「(西南学院中等部の英語教師だった)副田が昭和二十年四月に出征した翌日、西南学院職員住宅の副田の書斎に、藤井政盛西南学院庶務の息子で、後に西南学院学生部長、短期大学学長を歴任した藤井泰一郎さんが突然来訪して、副田の蔵書やシュヴァイツアー博士の手紙や写真など全部持ち去った。(中略)藤井政盛さんの西南学院における権威の前に、一介の田舎牧師上がりの英語教師の妻では太刀打ちできる相手ではない。だまって見送るほかなかった」
シュヴァイツアー博士の父上は牧師であった。博士幼少期の十九世紀末ドイツでは、牧師の社会的地位は高く、経済的にも恵まれていたと聞く。それに反し、私が子どものころから学生時代にかけて、日本での牧師の社会的地位は高いとはいえず、経済的にも苦しかった。父は、六人の子どもたちに教育だけはじゅうぶん受けさせたいと考えていたため、生活は極貧であった。
その極貧生活の中、1956年に白水社から「シュヴァイツアー著作集」全二十巻が刊行される。確か一冊三百五十円だったか、いまの価格では七千円くらいにあたろうか。どこでどう工面したのか、明日の食事にもこまるような中、父は著作集を購入する。
全巻をそろえて一年後、子どもたちの学費がどうしても不足した。父は「シュヴァイツアー著作集」と岩波書店の「内村鑑三著作集」をためらうことなく古本屋に売却した。家をはなれていた私は知らないが、父は、ふたつの著作集を大きな風呂敷で包み、末弟に手伝わせ自転車荷台にくくりつけて古本屋にはこびこんだという。
売るとき、父は、
「近日中にかならず買いもどす。できれば売らないでほしい」
と古本屋の店主に頼んだ。店主も心得たもので、店頭にはださなかった。古き良き時代の日本の商慣習とでもいえようか。その後、ふたつの著作集はなんどか古本屋と父の書斎を往復し、父が亡くなったときには本棚のもっとも目立つ場所にならべられていた。
父が九十歳のころである。牧師を引退して余生をすごしていた家を訪ねると、書斎からお菓子を持ってきて「君、これはうまいぞ」と私にすすめる。
神戸風月堂のゴーフルだった。
羊羹、大福など和風の甘物が父の好物だとおもっていたが、ゴーフルが好きだとは知らなかった。
「ずいぶん洒落たお菓子が好きですね」
と答えると、父は満面の笑みで、
「君、このゴーフルはシュヴァイツアー博士が大好きなのだよ。野村実(元白十字東村山サナトリウム院長)先生から聞いたのだけどね。野村先生がランバレネにおみやげでもっていったら、博士が大喜びして、その後『ミスタ・ゴーフル』と野村先生のことをよんでいたそうだ」
そう答えた。
シュヴァイツアー博士のことをぽつぽつ話していると、父が、こんなことを言いはじめた。
シュヴァイツアー博士がランバレネで治療にあたっていたとき、原住民だれでも病院内部にはあたたかくむかえたが、決して博士の居住空間には立ち入りをゆるさなかった。
このことをあげつらって、博士を白人優位主義者と非難する者もいるが、それは皮相的な見方ではなかろうかとおもう。立ち入りをゆるして盗みなどがおきたばあい、これを罰さざるを得ないが、それはアンフェアではなかろうか。他人の所有物という概念のない原住民に、欧米流の価値観をおしつけ盗みを罪とするのは傲慢ではなかろうか。
まず、所有という概念を教え、他人の所有物を無断で自己所有とすることが罪になることを教育することが先決であろう。その過渡期に、居住空間立ち入り禁止は、やむを得ない方法であった。
大要、このような内容のことを父は話した。
「人類生命への畏敬」という概念からシュヴァイツアー博士は、ランバレネでの医療活動に生涯をかけた。いま、玉井義臣会長は、人類発祥の地アフリカから、大地の資源を搾取し、奴隷という人間資源までも奪いつくした欧米諸国に変わり「人類への贖罪」として、アフリカ遺児教育支援百年構想に生涯をかけている。
冒頭、ふしぎな縁を感じると言った。
あしなが育英会副会長として玉井義臣会長をささえる私にとって、八十年前のシュヴァイツアー博士と父副田正義のささやかな交流が、博士の縁戚ルイ・シュヴァイツアーさんと息子の私とのあいだで、同じアフリカを舞台とするあしなが運動という社会運動で再現することになろうとは、想像もしなかった。
ふしぎな縁という所以である。